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太平洋戦争への道

国際大学 日米関係研究所

研究員  信 田 智 人

この論文では、太平洋戦争にいたる日本の国際関係をアヘン戦争にまで遡って みることにする。同戦争で初めて西洋が東洋と激突し、その結果西洋を主導と した国際システムの中に東洋が組み込まれていくことになった。中国にとって、 その過程は欧米帝国主義国に対する屈服であったし、中国周辺の国にとっては 植民地化であった。アジア全体が激動の時代を迎えた中、日本は独自の道を歩 んでいった。いち早い近代化によって、欧米の植民地を逃れることはできたが、 日本が選んだ道は帝国主義国への参入であり、それが最終的には太平洋戦争に 繋がっていった。ここでは、時間という縦の軸にそって、東アジアにおける国 際システムの変遷をみることによって、太平洋戦争への過程を分析する。

I. アヘン戦争前後

中国による緩やかな覇権

アヘン戦争以前の東アジアは、中国を頂点とする、冊封関係と呼ばれる緩やか な国際秩序が保たれていた。中国は宗主国といっても、軍事的、経済的に地域 を制圧していたわけではない。中国を頂点とする国際秩序の根幹にあったのは、 天命思想と中華思想であった。中国皇帝は天から命を授かって、国そして全世 界を治める。中国は世界の中心であり、他の国にあらゆる面で優越している。 野蛮人が優れた中国文明に惹かれるのは当然のことであるし、文明化すれば中 国人に近づくことはできる。この考えによれば、どれだけ忠実に中国文化、特 に儒教思想を踏襲しているかによって、国の序列は決まってくる。朝鮮は自ら その優等生であることを任じていた国であり、朝鮮からみれば日本などは野蛮 な国だったのである。つまり、中華思想とは多分に古来からの中国の文化的優 越に基づいたものであり、冊封関係とはその文化的な従属関係による国際シス テムだったといえる。

 他のアジア周辺国と同じように、日本もこの中国による覇権システムの枠組 みのなかに存在していた。その証拠は歴史上に点在する。古くは、福岡で発見 された倭奴国王印なども日本の支配者が中国皇帝に支配権の認知を求めていた 証拠であるし、歴史的に有名な大和朝廷の小野妹子をはじめとする遣隋使、そ の後の遣唐使、遣明使なども中国が宗主国であることを認めた上での交流使節 だったのである。

 ただ、こういった外交使節が長くとぎれていた期間もあり、日本の中国に対 する従属意識は朝鮮などに比べて薄かった。それは、日本の地理的条件による ところが大きい。アジア諸国にすれば、日本ははるか東方に存在するへんぴな 国であり、日本に対する関心は弱かった。また、荒海の東シナ海をへだてた島 国であることが、日本に対する侵略を困難にしていた。そのため、荒海のため 失敗に終わった二度の元寇をのぞくと、アジアからの攻撃は皆無であった。恵 まれた地理的条件が中国による保護の必要性を弱め、日本の中国に対する従属 意識を薄くしていた。それが、明治維新以後の日本に、いち早く古い中国によ る覇権システムから脱却することを可能にしたのであろう。

 中国との貿易は行われていたが、それは朝貢貿易という形式だった。中国は 完全な国なので自給自足できるし、貿易の必要はない。輸入は皇帝への貢ぎ物 であり、輸出はそれに対する返礼という形をとっていた。18世紀後半にヨー ロッパ諸国も中国との貿易を盛んにするようになったが、同じように朝貢制度 の形式を強制されているし、貿易は広東を通じてだけに限定されていた。

  アヘン戦争

 ヨーロッパ諸国のなかで、特に活発に中国との貿易を続けていたのは、英国 の東インド会社であった。英国で18世紀後半に紅茶を飲むことが流行すると、 中国からの茶の輸出が著しく増えていった。中国貿易の最初の頃は、南米産の 銀で貿易決済をおこなっていたが、米国の独立戦争以降それが困難になったこ ともあり、対中貿易赤字は英国にとって大きな問題になっていた。英国は広東 以外の開港を中国に迫った。開港によって市場が開放されさえすれば貿易赤字 は解消するという発想は、現在の日米貿易問題における米国を彷彿とさせる議 論である。だが、貿易は中国には必要のないものだし、朝貢貿易は外国に対す る恩恵にすぎないと考える中国は英国の要求を拒絶している。

 18世紀末頃から、英国は貿易赤字解消にもってつけの商品を発見した。七 年戦争後の1763年にベンガルの支配権を得た英国は、アヘンの専売権も取 得しそれを中国に密輸し始めたのである。アヘンが健康に良いという俗説が中 国に広まるとアヘンは流行し、英国の対中赤字を解消していった。清朝はアヘ ン禁令を出したが効果は生まれず、官僚の賄賂つり上げの口実に使われただけ で、清朝の腐敗を増長させた。

 1827年には、貿易収支が清からの銀の出超に逆転するほど、アヘンの輸 入は増加した。その後、1838年の推計によると中国に密輸されたアヘンは 2,400トンにおよんだという。これは、銀本位の税制度をしいていた清の経済に インフレをもたらしただけではなく、中国社会のモラルを著しく低下させた。  清皇帝の命を受けた欽差大臣の林則徐は、アヘン撲滅のために1,200トンも のアヘン没収などの努力をするが、これが英商人の怒りを買った。アヘンを原 因とする汚れた戦争に反対する勢力との間で激しい意見の対立はあったが、英 国議会は中国に4,000あまりの艦隊を派遣することを承認する。かくして18 40年、世に言うアヘン戦争が始まった。英国政府は、アヘン貿易の拡大では なく、西洋の国際システムに基づいた対等な交易・外交関係を築くことを大義 名分としていたが、アヘン貿易が英国貿易の生命線であったのは否めない。英 国のアヘン貿易商は積極的に、英国艦隊に資金や情報を提供した。

 十分な供えをもって派遣された英国艦隊に対して、清側は近代戦の準備がな かった。天津近くの白河河口に英国艦隊が出現すると、北京攻撃の脅威を感じ た清朝は、広東で交渉することを約束する。交渉はすぐにはまとまらず、その 後も戦争は拡大するが、英国はインドからの増援軍を派遣し沿岸部を次々と占 領、南京へと迫った。南京陥落を目前に、清側は英国側の要求を大部分受け入 れ、1)2,100万ドルの賠償金、2)香港割譲、3)廈門・福州、寧波、上海の4港の 開港、4)独占輸入の廃止、5)関税自主権の撤廃、6)外国人に対する治外法権、な どを含む南京条約を結んだ。

 アヘン貿易が戦争の契機となったが、西洋と中国との対決は避けられなかっ たと思われる。対等な関係にある主権国家同士から成り立つ西洋の国際システ ムと、中国を頂点とする中華思想に基づいた階層のある冊封関係とはともに相 いれないものであった。また、国家間の平等を原則とした外交関係と従属関係 に基づく朝貢制度、貿易によってより多くのものを享受しようとする西洋と自 給自足を信条とする中国、という根本的な対立も存在した。西洋が東洋に進出 することによって、お互いのシステムは遅かれ早かれぶつかりあう運命にあっ たのである。

ペリーによる日本の開国

 アヘン戦争における清の敗北が日本にも伝わり、江戸幕府も清朝と同じ運命 をたどるのではないかと戦々恐々としていた。アヘン戦争に遅れること10年 あまりの1853年、マシュー・ペリー提督率いる黒船4隻が来航、日本に開 港を迫った。

 米国が日本の開国を欲したのには、いくつか理由がある。まず第一に、中国 との貿易を行っていた海運業者にとって、日本は燃料である石炭の豊富な理想 的な中継地点であった。また、米国の商人は日本を潜在的な輸出市場だと考え ていた。さらに、北太平洋で捕鯨を盛んに行っていた米国にとって、日本は理 想的な停留地であり、避難場所であった。捕鯨のために国交を迫った米国が、 後年日本の捕鯨批判に対する最大の批判国になるのは歴史の皮肉というもので あろう。こういった商業的な目的のほかにも、米国、特に海軍は太平洋に進出 することによって、国家の威信を示したいという野心もあった。また、日本を 開国して、文明化するのが米国の使命であると真剣に考えていた米国人もいた。

 当時のフィルモア大統領から日本の開国を命じられたペリーだったが、それ を自分のライフワークだと位置づけ、強い決意をもって臨むことになる。ペリ ーは日本について書かれたヨーロッパの書物を読み漁り、日本開国のためには 圧倒的な力の誇示が一番だという結論に到達する。その結果が、黒船4隻を率 いての来航だったのである。

 幕府側は、すでに交易のあったオランダ人を介して、長崎を通じて交渉する ようにペリーに要請するが、ペリーはそれを拒否し浦賀上陸を強要した。10 0人の海兵隊員と、2つの楽隊の音楽とともに文字どおりペリーは鳴り物入り で日本上陸を果たした。外国人を接待するのは屈辱的だと高官が一人もでなか ったため、応対したのは浦賀という町奉行であった。ペリーはフィルモア大統 領から「偉大なる良き友天皇」あて(日本の実権は将軍が握っていることも知 らなかったと思われる)の国書を手渡した。難破船員の救済と商船と燃料補給 のための開港を求める国書を手渡すと、翌年春には再度来航時までに回答を用 意するように告げて日本から去った。

 その言葉通り、翌年2月にペリーは、9隻の艦船を率いて今度は江戸湾内横 浜沖に来航してきた。前回同様、浦賀での応接を幕府側は要求するが、ペリー はその要求を無視し江戸に向けて艦隊を走らせた。あわてた幕府側は、急遽横 浜小柴に応接所を建築した。幕府側の回答は、難破船員の救済に対する同意と 長崎での燃料補給認可だった。ペリー側が長崎に関して反対した結果、下田と 函館の開港によって合意が成立し、日米和親条約が締結された。これによって、 200年あまりの間続いた鎖国が終わりをつげた。さらに、この4年後には日 米修好通商が結ばれ、新潟・神奈川・長崎・兵庫4港の開港を追加したほか、 治外法権の承認や関税自主権の放棄を含める不平等条約であった。

 日本を開国したのがヨーロッパの列強ではなく米国であったことは、開国後 しばらく米国で南北戦争が勃発しアジアに力を注ぐことができなかったことや、 もともと米国にはアジアに対する帝国主義的な野望が弱かったことを考えると、 日本にとって幸運なことであった。これが日本が植民地化を免れた大きな要因 の一つであった。

 国際的にみれば米国による開国が幸運なことであったとしても、国内的な衝 撃は強かった。諸国の大名の多くは、鎖国体制の崩壊は主権の終焉であり、日 本も清朝と同じ運命をたどると考えた。米国の存在は、すでに弱りつつあった 徳川幕府の威信をさらに弱め、反外国人勢力を天皇擁立による討幕運動に動か すことになった。  1958年から明治維新までの10年間は、生麦事件や英公使館襲撃事件な ど排外攘夷の動きがめだったが、下関砲撃事件や薩英戦争などで西洋の軍事力 の優位をまざまざと見せつけられると、明治維新後は一転して西洋の技術導入 による近代化をめざすようになる。